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日本の裏天皇?安岡正篤について | 細木数子の旦那という話も…

出自

安岡正篤(やすおか・まさひろ)は、明治31年(1898)2月13日、大阪市に生まれました。幼少の頃から四書五経に親しみ、中学生のころは王陽明に傾倒しその思想を研究・普及することに生涯を捧げました。

陽明学者として

安岡正篤は東京帝国大学法学部政治学科を卒業すると同時に『王陽明研究』を著して一躍脚光を浴びました。以後、一般には陽明学者として知られるようになりました。また、彼は漢学にも通じており、『日本精神の研究』等の著作で世に知られるようになりました。

創設者として

大正末期、東京小石川に「東洋思想研究所」を、次いで1927年(昭和2年)「金鶏学院」を創設しました。自らの学究とともに、生涯を有為の人材育成にささげました。1931年(昭和6年)には「日本農士学校」を埼玉県菅谷の地(現嵐山町)に開校し、浮薄な都市文明を離れ、大地にしっかり足を着けて東洋の古典・哲学を学び、己を修めて国家社会の為に真に役立つ“無名にして有力なる”人材の育成を目指しました。

生涯

安岡正篤は、1983年に85歳で亡くなりましたが、彼の思想は、現代においても多くの人々に支持され、研究され続けています。彼は自らの生涯を「全力投球」と表現し、常に自分自身の向上と人々の幸福のために全国各地で講演を行い、多くの人々に影響を与えました。

昭和の裏天皇と呼ばれた男

第二次世界大戦の終了時に流れた玉音放送。あれを読み上げたのは当時の昭和天皇でしたが、実はその原稿を書いたのは裏天皇である安岡正篤と言われています。彼はGHQと対等に交渉し、戦後の高度経済成長期において、日本人が拝金主義に暴走しないよう、日本の上に立つ方々に精神的指導を行い金鵄の役割を果たしました。しかし、この玉音放送にも、実は裏があったのです。彼は原稿に古代中国の先哲たちの教えから学んだ重要で詔勅の核となる部分を引用していましたが、当時の内閣によって改ざんされてしまいました。このことについて、安岡は大変悔やんでいました。

細木数子との関係について

細木数子さんは、日本の占い師であり、六星占術という占いを考案したことで知られています。彼女は、1982年に独自の研究で編み出したとされる六星占術の本を出版し、1985年には運命を読む六星占術入門を出版してベストセラーとなりました。彼女は銀座のクラブのママであった際に、政財界にも力を持つ陽明学者である安岡正篤と知り合い、結婚の約束を取り交わしました。しかし、彼は当時85歳と高齢であり、入院先の病院での検査では認知症の症状があったとも言われています。安岡正篤の親族が婚姻の無効を申し立てた翌月、彼は亡くなりました。調停により、婚姻は無効であるとして和解が成立し、初七日には籍を抜くこととなりました。

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