政府の陰謀未分類

【口伝】正統竹内文書とは何か?竹内睦泰氏が公開した超古代文献の秘密

門外不出とされていた古文書『正統竹内文書』の内容が、近年、継承者である竹内睦泰氏によって公開され始めています。この記事では、竹内文書との違いや、正統竹内文書の内容について解説しますので、ぜひ参考にしてください。

正統竹内文書とは

『正統竹内文書』(せいとうたけうちもんじょ)は、日本の古代史にも登場する人物である武内宿禰(たけのうちすくね)が、竹内家に代々伝えたとされる超古代文献のことを言います。その内容は門外不出とされており、現在に至るまで口伝でのみ継承されてきました。

武内宿禰は古代の天皇家に仕え、330年も生きたと言われるほど謎の多い人物でしたが、近年になって子孫の竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏により、「武内宿禰」というのは役職名であるということが明かされています。

竹内睦泰氏は第73代目の武内宿禰ということから、まさしく超古代から日本の歴史に関わってきた家系と言えるでしょう。

正統竹内文書のルーツは、『古事記』編纂の際に参照された歴史書『皇帝日嗣』にあるとされています。

その、日本最古とも言えるほどの歴史書と、秘密結社「竹内神道」に伝わる秘儀・奥義とを掛け合わせたものが、『正統竹内文書』なのです。

『竹内文書』との違い

なぜ、正統竹内文書がわざわざ「正統」と称されるのかと言うと、実は正統竹内文書とは別に『竹内文書』というものが存在するからです。

『竹内文書』は、茨城県茨木市磯原町の竹内家に伝わる古文書類の総称であり、約2000年前に神代文字(じんだいもじ)を用いて編纂されたものとされてきました。

その内容は非常に突飛なものとなっており、はるか昔に地球に飛来した異星人によって日本の歴史は始まったという説や、世界各地に散らばるピラミッドを建立した説などが盛り込まれているようです。

しかし、近年では『竹内文書』の内容は創作であり、偽書と見る向きが高まっています。

竹内睦泰氏が公開を決めた真意

『正統竹内文書』の口伝継承者である竹内睦泰氏が、これまで門外不出とされてきたものを公開に踏み切ったのは、前述した竹内文書が理由とされています。

竹内睦泰氏によれば、偽書とされる『竹内文書』と口伝でのみ伝わる『正統竹内文書』はまったくの別ものであり、両者は無関係だということです。

真実を語らずにいたならば誤解を生み、正統竹内文書の威厳が損なわれるという判断があったのかも知れません。

正統竹内文書の構成

『正統竹内文書』は口伝でのみ継承されてきたものであることから、これまで書籍は存在しませんでした。その内容は多岐に渡り、初伝・中伝・上伝・皆伝・総伝・奥伝・秘伝・極秘伝など、細かく分類されているのだそうです。

このうち奥伝・秘伝・極秘伝にあたるものが他言無用とされ、竹内家の人間以外には門外不出とされてきたと言います。

他には雑口伝というものもあり、こちらは主に宴の席などでにぎやかしとして語られてきたようです。しかし、ややスピリチュアル要素が強いテーマが多いこともあってか、口伝継承の際にどこかで脚色されたり改変されたりした可能性は否定できません。

こと雑口伝については第73代目武内宿禰である竹内睦泰氏自身も、継承されたものはすべて覚えたとしながらも「どこまでが真実かはわからない」と語られています。

『正統竹内文書』の内容

正統竹内文書は、歴代の武内宿禰の口伝である「竹内神道」と、南朝天皇家の子孫の口伝から成るものです。公開に至るまでは多くの反対があったと言います。

竹内睦泰氏は2020年に亡くなられていますが、極秘口伝を公開し始めてまもなくのことだったためか、真実を語り過ぎたのではないか?とも言われているのです。

正統竹内文書で語られているのは、「無」からの宇宙の創造に始まります。

はるか昔、地球にはひとつの大陸があり、長い時間をかけて分裂していったそうです。やがて日本がユーラシア大陸から分離する頃、男女神(伊邪那岐・伊邪那美)が登場します。

伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)は、地上にいた生物を依り代として、岐阜県飛騨の位山(くらいやま)に降り立ちました。

正統竹内文書によると、イザナギ・イザナミもまた武内宿禰と同じく役職制であり、何代にも渡って異なる地に存在したのだそうです。

人類の故郷は地球にあらず、オリオン座の三ツ星・北極星・プレアデス星団スバルなどが魂の故郷だと言います。その星々から魂のみが地上に降り立ち、人類の祖先になりました。

世界の中心は、イザナギ・イザナミが統治する日本であると、正統竹内文書は伝えています。

さらにイザナギ・イザナミには16人の皇子・皇女がおり、彼等は16の民族・種族を束ねる長のような役割を担っていたということです。

日本神話で知られる太陽の神「天照大神(アマテラスオオミカミ)」や月の神「月読命(ツクヨミノミコト)」さらに海の神「須佐之男命(スサノオノミコト)」もこの16氏族の仲間でした。

その後、16氏族は世界中に散らばり、それぞれの担当地域の長を務めることになります。このつながりを表しているのが世界各地の遺跡でみられる太陽紋やペトログリフだと言うのです。

日本から飛び立った16氏族は、そのまま他の地に根ざした者、開拓方法を伝え歩いた者などもいましたが、長い年月を経て再び日本に集結することになります。

そこから始まったのが、高度な文明を長い平和を築いた日本古代史であり、縄文時代です。

再び世界へ

やがて天変地異が起こると、日本にいた者たちは再び世界に向かい始めます。陸の道を行く氏族・海の道を行く氏族・シルクロードを行く氏族です。

ことシルクロードを進んだツクヨミ氏族は天体の動きに基づいた暦をつくり、月の満ち欠けに合わせて様々な容姿に変化していきました。シルクロード沿いにはツクヨミにまつわる伝承が多くあるそうです。

やがて現在のエジプトやエチオピアに渡ったツクヨミ氏族は、男性は大工や石工職人に、女性は機織りになったと言います。ちなみにピラミッドを作ったのは、このとき登場した石工職人だというから驚きです。

また、他の道を進んでシュメールに辿り着いた氏族はスメルの民を名乗り、これが後に皇尊(すめらみこと)と呼ばれる天皇家の祖先になったと伝えられています。

ちなみにスメルの民は祭祀を司る祭祀王と力を司る統治王の二人で国を管理しており、このうち統治王がいた都が実在する「スサ」という街で、スサの王(スサノオウ)と呼ばれていたということです。

再び、日本へ

シュメール文明の均衡が崩れたのち、スサノオの一族は高い武力と航海技術をもって世界中を渡り歩き、その後また日本に戻ってきたと言います。

時を同じくしてアマテラス一族もインドネシアから沖縄、宮崎を通って日本に戻ってきました。ツクヨミ氏族の一部が戻ってきたのも、この時です。

こうして16氏族のうち、日本に戻ってきたツクヨミ・アマテラス・スサノオに日本の統治が任されることとなります。スサノオ族は出雲の国を、アマテラス族は日向の国を拠点にすることになるも、両者は激しい対立関係にあったようです。

壮大な兄弟喧嘩は両者の武具を砕くことでハイライトを迎えますが、正統竹内文書ではこの喧嘩を「世界初の戦争」を見なす意を示しています。

次のページを読む
1 2
Share: