政府の陰謀

パッツィ家の陰謀:権力と富に執着した一族の策略とは?

イタリアの歴史には数多くの陰謀やクーデターがありますが、その中でも「パッツィ家の陰謀」は歴史に名を残す事件だったようです。この謎めいた一族が織り成す陰謀について探求していきましょう。

パッツィ家とは何?

パッツィ家はイタリアの名門貴族であり、メディチ家とはライバル関係にあった一族です。1478年にメディチ家の暗殺を企て、フィレンツェの政治情勢を激変させる事件を引き起こしました。その背後には何があったのか、なぜメディチ家を狙ったのかは謎が多く、未解明のままです。イタリアの歴史における興味深いエピソードのひとつとして注目されています。

パッツィ家の陰謀とは?

メディチ家はパッツィ家のライバルである名門貴族の1つで、パッツィ家の陰謀とは当時の当主ロレンツォ・デ・メディチらをパッツィ家が暗殺しようとした事件です。この陰謀はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でのミサの席上で実行され、メディチ兄弟の一人「ジュリアーノ」が刺殺されました。

パッツィ家の陰謀の背景

教皇シクストゥス4世がフィレンツェに近い要所であるイーモラを買収し、フィレンツェの実質的な支配者であったメディチ家当主のロレンツォ・デ・メディチの政策と対立するようになったことが背景のようです。メディチ家とパッツィ家の対立を激化させたのはシクストゥス4世がメディチ銀行の地位を奪った代わりにパッツィ銀行に委譲したのがきっかけだったそう。さらに、パッツィ一派のフランチェスコ・サルヴィアーティがピサ大司教に任命されましたが、ロレンツォはこれを妨害し、パッツィ家はロレンツォを暗殺しようとする陰謀をめぐらせたと考えられています。

事件の記録

この陰謀は1478年4月26日に実行されたようです。場所はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でのミサの席上でした。ピサ大司教やパッツィ銀行ローマ支店長などの者たちが、メディチ兄弟を襲撃しました。ロレンツォ・デ・メディチの弟であるジュリアーノはフィレンツェのドゥオモでミサを聴いていた際に、パッツィ家の一員であるフランチェスコ・デ・パッツィによって刺殺。ジュリアーノは殺害されましたが、ロレンツォ自身は傷を負いながらも難を逃れました。暗殺者たちは捕らえられ、この陰謀に関与したパッツィ家の関係者らに対しては容赦のない報復を執行。パッツィ家の当主を含む約100人近くが処刑されたのです。

その後パッツィ家はどうなった?

パッツィ家は事件後に多くのメンバーが処刑されたため、その影響力は減少しました。しかし政治的にはメディチ家との協力関係を築き、多くのサント=ステファノ騎士団員、政治家、聖職者を輩出。16世紀末には後に聖人となったカルメル会修道女マリア・マッダレーナがパッツィ家から生まれました。

パッツィ戦争と和平

パッツィ家の処刑により、教皇シクストゥス4世はフィレンツェを破門。ナポリと同盟して宣戦布告し、パッツィ戦争が勃発しました。しかし、ロレンツォはナポリを訪れてフェルディナンド1世と会見し、和平を成立させました。その後も一部で不穏な状況があったものの、1484年にシクストゥス4世が亡くなり事態は収束し、ロレンツォの支配は確固たるものとなっていきました。

「パッツィ家の陰謀」にまつわる不審な点

ここまでは記録上の「パッツィ家の陰謀」。しかし実はいくつか不審な点もあり解明されていない事もあるようです。

絵画

ボッティチェリのフレスコ画には、1478年のメディチ家への陰謀に関与したパッツィ家の処刑の様子が描かれていました。しかし、1494年にメディチ家がフィレンツェから追放されると、その絵は破壊されてしまったようです。また、陰謀に関与したとされるベルナルド・バンディーニ・バロンチェッリはコンスタンティノープルに逃れていましたが、1479年12月に捕まり絞首刑にされました。この処刑の様子はレオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチに描かれており、こちらについては現在しています。なぜボッティチェリのフレスコ画は破壊されてしまったのでしょう。

ジュリアーノの死体

パッツィ家の陰謀によって刺殺されたジュリアーノは後に遺骸が発掘されています。パッツィ家の陰謀によって刺殺されたとされているにも関わらず、鑑定の結果では頭部への損傷が最も大きかったようです。

教皇クレメンス7世

クレメンス7世は、ジュリアーノ・デ・メディチの遺児として生まれました。ジュリアーノはパッツィ家の陰謀により暗殺されたフィレンツェの政治家であり、クレメンス7世はその後を継いでメディチ家の指導者となりました。

本当の首謀者

アメリカの研究者であるマルチェロ・シモネッタが、2004年にパッツィ家の関係者が残した暗号文書を解読。「ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが事件の首謀者であるとする説」を唱えました。しかし、パッツィ家の陰謀にまつわる謎は今も解き明かされないままです。

まとめ

パッツィ家の陰謀は、フィレンツェの政治的な権力争いや教皇権との関係など複雑な背景を持ちましたが、最終的には失敗に終わりました。

一方で、現代でも解明されていない謎が残されているのも事実です。果たして記録に残されているものだけを正しいものとして受け止めて良いのでしょうか。

私たちは真実を受け止める力を試されているのかもしれません。

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