【ロックフェラー家】石油王と慈善事業家、そして闇の政府の主要人物?【陰謀】
ロックフェラーは悪名高い?
しばしばユダヤ系富豪ロスチャイルド家と引き合いに出されることのある米ロックフェラー家。
一代で財を築きあげた石油王、ジョン・D・ロックフェラーの性格は幼少期の父から受けたところが大きかったようで、商売敵のピンチは自分の利益拡大のチャンスであるという方針を持っていたと言われています。
そのような殺伐とした性格と、他社を蹴落とすことを意に介さないビジネスの進め方は確かに巨万の富を生むのには必要な素質だったかも知れません。しかし関係者から見れば恐ろしく、嫌われやすいタイプだったと言えるでしょう。
ロックフェラー家は、誰にも追いつけないような圧倒的な巨万の富を築いていたからこそ、慈善事業に力を入れることによって富裕と清貧のバランスをとろうとしたのかも知れません。
ロックフェラー家にまつわる陰謀論
実はロックフェラー家は「闇の政府」(影の政府・ディープステート)を造ろうと言い出した発起人だとする説があります。
アメリカ政府が国債を発行できるほどの経済的権力(後述するFRB参照)を持っていることから、このような説が出たのかも知れません。アメリカ元大統領のジョン・F・ケネディ氏は、ロックフェラー家が所属するFRB(後述)から通貨発行権を取り戻そうとしたために暗殺されたという説もあります。
また、ロックフェラー家はイルミナティ13血統に属しているとも言われており、新世界秩序の構築に深く関係しているという噂も。
以下にお伝えするロックフェラーの生涯を見れば、そういう可能性もあり得るかも知れない、と感じることでしょう。
ジョン・D・ロックフェラーの生涯
1839年ニューヨーク生まれ。父は浪費家、母は倹約家という裕福とは言えない家庭で育ちました。父の不在が多く、家庭の貧しかったジョンは幼い頃から母を助け、16歳から働き始めます。
1830年オハイオに移り、商業高校に入り簿記を学んだ後、会計士の弟子入りをして朝6時半から10時まで勉強に励む生活。
ジョンは19歳のとき、友人と2000ドルずつお金を出し合い、農産物を売買する会社を立ち上げ共同経営を始めます。
時を同じくしてペンシルバニア州ではエドウィン・L・ドレイクが油田で石油採掘に成功。一攫千金を狙う人々が夢を抱いて集うようになりました。
一件関係のないように思えるこの出来事から、ジョンはひらめきを得ることになります。
原油の価値が高騰したのをきっかけに、ジョンは「これからは石油の時代が来るのか」と感じたのです。しかしジョンは、自分には石油採掘で一山当てるだけの才覚もなければ資金もないことを自覚し、別の方法を探るようになりました。
それは石油採掘を生業にするのではなく、採掘された石油を精製する事業を始めたらどうかというアイディアでした。
1865年には、共同経営をしていた友人と方針の違いから決別、パートナーシップを解消。自分の石油精製事業所を売却することで資金を調達。
そして1870年、当時の幹部を含めた5名でスタンダードオイル社を設立したのでした。
スタンダードオイル社の経営はコツコツ地道な方法をとるというよりは、巧みな根回しによって利益を上げるというやり方だったと言います。鉄道会社との密約や、石油送料の値上げをするなどして瞬く間に利益を倍増させていったのです。
ジョン・D・ロックフェラーは、ライバル会社を窮地に追い込んでは買収するという非人道的な方法で、巨万の富を得るようになっていきました。一時期にはアメリカの石油シェアの90%をスタンダードオイル社が占めていたほどの稼ぎっぷりでした。
ライバル社を蹴落とすためにスパイを送り込んで、輸送記録など相手との条件交渉で有利に立てる材料をあらかじめ用意したうえで買収の話を持ち掛けていたと言います。この件は内部告発によって明らかになったということです。
ロックフェラーの石油事業の衰退
JPモルガンがエジソンやテスラとともに電気事業を始めるようになると、石油の需要は低下傾向に。街頭などに使用されていた灯油も、より安全な電球になるなど、時代が変わり始めます。
しかしガソリン車が開発されると、それまで石油から灯油だけを抜き取って残りは捨てていたジョンは、ガソリンを抽出することによってぼろ儲けするように。その利益独占があまりに度を超しているという理由から有罪となり、利益を分割することを命じられます。
しかしロックフェラー家の築いた信頼は厚く、ガソリンシェア率が大幅に下がることはなかったのでした。
富を築き続けたロックフェラーは、モルガンを始めとした他の民間の銀行家たちと共同出資し、FRB(米国の中央銀行制度の最高意思決定機関)創設。政府の許可を得なくても自分たちの権限で通過を発行できるようになったのです。
FRBは国営ではなく100パーセント民間の組織であり、現在では政府がFRBから国債を買うまでになっていると言います。
ジョンの晩年と息子ジョン・D・ロックフェラーJr.
ジョン・D・ロックフェラーは、晩年は慈善事業に熱を入れ、事業は息子であるジョン・D・ロックフェラーJrに託すようになったということです。
ジュニアは父の後を継ぐも父のようなビジネスセンスはなく、プレッシャーや経営の難しさから心身を病んだことにより、30代そこそこで慈善事業に完全シフトするようになっていきました。
そこから慈善団体ロックフェラー財団、ロックフェラー医学研究所(後のロックフェラー大学)を設立。この大学から25人以上ものノーベル賞受賞者を輩出しています。ちなみに野口英世がこの大学で梅毒や黄熱病の研究をしていたという逸話も。
ジュニアの慈善事業への献身により、それまでの「石油王ロックフェラー家」のイメージが変わっていきます。
慈善事業で財を成すようになったロックフェラー家でしたが、ある時、子会社にあたる燃料製鉄会社で大規模なストライキが起こったのでした。
場所はコロラド州南部の炭鉱町にある燃料製鉄会社で、劣悪な状況で働いていた労働者たちによって起こったストライキでしたが、突入した鎮圧部隊が労働者ら30人以上を虐殺したのです。隠れていた女性や子どもたちも窒息して亡くなるという悲悲劇的な事件でした。(ラドローの虐殺)
ジュニアは現地に赴き労働者の環境改善を行ったと言います。それによってロックフェラージュニアの信頼度はより高まっていったとのことです。
ロックフェラーセンター
ロックフェラー家の名を冠したロックフェラーセンターは、ニューヨークの五番街にあり、冬には巨大なクリスマスツリーが展示されることで有名。ちなみに日本の三菱地所もバブル絶頂期にロックフェラーセンター内の店舗買収したのだとか。
ロックフェラーJr.の妻
ジュニアの妻は若い芸術家の支援に力を入れており、知名度の少ない芸術家たちもさk品を展示できる場所・機会を得られるように尽力したと言われており、近代美術の発展に貢献したと言われているのです。